YOSHIの会報告 2018711

(はじめに)

19921017日米国ルイジアナ州での服部剛丈(よしひろ)射殺事件から25年。「アメリカの家庭から銃の撤去を求める」請願運動をはじめとして、民事裁判で得た賠償金で米国の銃規制団体の表彰と賞金による活動支援、YOSHI基金の設立、ルイジアナ州の高校生との交流にも尽力した。気が付けば私達(服部)は、70歳を過ぎ、YOSHIの会メンバーも、息子のホストファミリー、ヘイメーカーさんも同じ状況だ。残念ながら米国の銃規制はトランプ大統領の抵抗もあって前途多難の模様だが、やめるわけにはいかない。新メンバーを募り若い世代にバトンタッチをしつつ続行する決意をした。

幸いなことに平田雅己さん(名市大、米現代史、平和論)に11年間からなる縁ができていた。わたしたちの活動を平和活動としてとらえ、彼の著書「ナゴヤ・ピース・ストーリーズ」にも記していただいている。まず、彼にYOSHIの会入会を承諾してもらった。彼のゼミ生の一人もYOSHIの会会員に。またAFS東海支部支部員一名が関心を寄せて入会。長年活動に関心を持っていた服部美恵子の学友も入会。剛丈クラスメイト西川君、ラグビー部の友人平くんは遠方に住むがメールで意見交換できると入会快諾。6名の方が新会員になり、願えばできるが実感できた。

711日、新旧会員に加え、AFS関係者などを含む22名が集まり、エンゲルバートミアさん、由紀さんのお話に耳を傾けた。

 

711日のYOSHIの会の成果と詳細

坂東さんの軽妙かつユーモアにあふれる司会で肩のこりをほぐしつつ3時間を過ごした。

エンゲルバートミアさん、由紀さん母娘のお話を聞き、日本からできる支援はないかを探るのが今回の主目的。ミアさんは、2018214日に銃乱射事件で、17名が亡くなった米国フロリダ州のマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校生で15歳。

彼女の話の後、協議に入り、日本からできる支援について、AFSYOSHI基金を利用し、ミアさんの母校フロリダのダグラス高校の学生を招聘する案が出されたのは大きな成果だった。実現可能な名案に思われるのでAFSUSAに打診することになった。

ミアさんのお話 原文

   ミアさん(左)と母親の由紀さん

私はアメリカフロリダ州のパークランドに住んでいる高校生です。私が通っているマージョリー・ストーンマン・ダグラスの高校では、今年214日、バレンタインディに銃の乱射事件が起きました。14日午後、美術の授業中でした。まもなく下校時間という時に、火災報知機が鳴りました。訓練かなと思ったけれど、その日の朝に訓練したばかりだったのでおかしいなと思いながら、先生の指示で校舎の外に出たら、学校職員が血相を変えて走って来た。「逃げなさい!」と大きな声で叫びました。

 わけもわからずに逃げました。避難場所は校内の野球場ですが、「逃げなさい」という声に押され、野球場の先にあるスーパーまで逃げました。逃げている途中に倒れこんで、泣いている人もいました。

そして警察、救急車が次々と学校に向かって来ました。教室に逃げ込んだ生徒たちは数時間、恐怖と不安の中で隠れていました。学校内で撮った映像や写真等が携帯電話を通じて、学生たちから入り始めました。私と同じサッカー部にいるアリッサが撃たれて亡くなったという情報も入ってきました。前日に一緒にサッカーをしたばかりなのに、こんなことになるなんてすごく悲しかったです。

 この事件で、先生、生徒を含む17人が死亡。その他17人が重傷を負いました。同級生が9人亡くなりました。クラスメイト、部活の仲間、お友だち。2週間後学校が再開して、私の隣の席はポツンと空いていました。悲しくて、先生も生徒たちも授業中泣いてしまったことがあります。私たちはまだトラウマやメンタルダメージと闘っています。私はまだ15歳です。このような経験は地球上の誰もするべきではありません。

 日本は夜遅く歩いていても安全です。アメリカは誰が銃を持っているか分からず、安心した生活が送れない。安心して学校にも通えない社会は何かがおかしい。私に何か出来ないか考えるようになりました。マージョリー・ストーンマン・ダグラス高校の生徒たちは、今後、このような事件が二度と起こらないように銃の規制を求めて様々な活動を行なっています。今回の事件後、高校生の訴えが共感を呼び、3月にワシントンで行なった、マーチ・フォー・アワー・ライブズの行進には約80万人が集まりました。

 私はその前日に友人と一緒に米議会を訪れ、アジア太平洋系アメリカ人議員連盟の代表の方々に、銃の規制についてのスピーチを行いました。日本では店で(身を守るための)ライフルは手に入れられません。誰かおかしなことを考えても、何十人も殺せるような武器を持っていないのです、と、日本の状況に触れながら、銃規制強化を訴えました。銃を使った事件で家族や友人を亡くす悲しみは、もう他の人には味わってもらいたくありません。亡くなった人たちのために、私は声をあげ続けています。有難うございました。(拍手)

賀茂美則さんの話(ルイジアナ州立大学 社会学教授)

1992年の事件の時に、初めて追悼式で服部夫妻に会った。その時、何か出来ることがあったらやらせてくださいと言った。服部さんは英語でスピーチなさったが、ホテルで練習してきたのだろうなと思った。悲しみを堪えてそんなことしなくてもいいのにと感銘を受けた。

 もうひとつ、こうやって銃規制の運動をやって戴けるのはアメリカに住んでいる者としては、非常にありがたいことなので、ここでお礼を述べさせていただきます。アメリカのことを日本でやっていただくという事は僕らにとって、非常に助かること。

1993年の5月から裁判があった。その3ヶ月くらい前に中華料理店でヘイメーカーさん夫妻とウェブが3人座っていて、4つ目の椅子が空いていた。本来剛丈君が座っているべき椅子だった。僕は事件のすぐ後に、朝日新聞の友だちに雇われて通訳をやっていたので、その時にヘイメーカーさんに通訳として会っている。その時に「何かあったら声をかけてください」と言っていたのをヘイメーカーさんが覚えていた。そこが始まり。

 1993年に無罪評決が出て撃ったピアーズさんが無罪になった。その経緯は「アメリカを愛した少年」という本に書いた。ここに全て裁判記録がある。最後に僕の感想も入れた。良かったら読んでください。この翌年、服部夫妻が民事訴訟を起こし損害賠償を求めた。僕も関わって弁護士を探した。

弁護士が良い人で、当時としては、ルイジアナ州始まって以来の最高額が出た。たいした額でなく65万ドル。今のお金にしたら7000万円。撃った人は破産宣告していたが、自宅で起こった事件だから、火災保険会社が10万ドル払った。その中から弁護士費用が半分で、残りの半分を服部夫妻が全て寄付して、それがYOSHI's Gift 日本で出た死亡保険金の全てはYOSHI基金にして1年間アメリカの学生を日本に留学させて援助する奨学金にした(YOSHI基金)。45,000ドルのYOSHI's Giftは毎年銃の規制団体を選んで援助をしている。銃規制は州レベルのものがすごく大事なので、凄くありがたいこと。

 前後するが1993年の11月にクリントン大統領に会いに行き、署名170万人分、ダンボール箱38個を日本から送った。その時にクリントンに会ったが、直前まで会えるかどうかわからず、ワシントンに入った。待っている間に一番銃規制を進めてくれているファインシュタイン上院議員に会ったが、彼女の所に電話がかかってきて、「服部さんがきたよ」って話していた。相手は誰か訊いたらヒラリー・クリントン、共に銃規制を後押ししてくれる存在だった。そして、最後の晩にブレディ法が通らなくて寝たのに、朝起きたら、坂東さんから電話がかかって来て「おめでとう!」って言う。() 僕たちは寝てしまったから意味が分からない。多分1159分くらいの真夜中に成立したようだ。「何の話?」「ブレディ法が成立したよ」。この法律は購入に際してのバックグラウンドのチェック、犯罪歴、精神的な問題のある人には銃を売らないという連邦法。1998年にFBIのデータベース完成により5日間の待機期間がなくなったが、ブレディ法の中身は今も有効。

その後銃規制の運動も上がったり下がったりで、やっぱりクリントンの時が一番盛り上がった。ブッシュの共和党になって一気に落ちた。連邦としてはほとんど動きがなくて、オバマが大統領になって期待があったが、その頃には銃規制は票にならないというイメージが、連邦レベルでは出来ていた。何度も言うが、州レベルでは別で、何百人の電話とか手紙で州会議員が動く。ルイジアナ州でもヘイメーカーさんが中心になって法律がいくつかできたりしている。

 日本から服部さんが来て、僕も一緒に色んなところを回った。シアトルにも行った。今参議院議員の小野次郎さんとテキサスとかニューヨークとか、3ヶ所くらいを回った。日本でもシンポジウムをやらせてもらった。今回の324日の美愛さんたちの運動に呼応したマーチ・フォー・アワー・ライブズ名古屋というのも、同じような流れで来ている。

 で、20年になった6年前の2012年に、ルイジアナで追悼式典があり、その時に服部夫妻と祥子さんと平田先生が出席。朝日新聞は剛丈君の同級生の記事。今回彼の書いた記事を読んできたが、なかなか心のこもった記事だった。

彼らはハットリって呼んでいて、「僕等が知っているのはハットリで、YOSHIなんて知らない」って書いてあった。(プロジェクターで20周年の紹介) 

 黒人の人が市長さんで、服部さん夫妻が名誉市民になって、金色の鍵をもらった。彼は再選を控えていたので、けっこう危ない橋を渡った。服部さんを応援する事は、必ずしもアメリカではプラスにならない。ルイジアナでは銃規制に反対する人の方が多い。でもこの市長は凄く良い人で、再選の危機も顧みずに服部さんを厚遇してくれた。祥子さんの右に写っているのがホストファミリーのヘイメーカーさん。ホリーとディック。(彼は今でも市長?) いや、あの後もう一期やって、この間変わった。

 僕が銃規制から最近やや遠ざかっているという側面があり、324日もルイジアナでマーチがあったらしいが用があって、出られなかった。申し訳ない。僕にできることとしては、事件のことと、派生したことを、色々な所で伝えたいという事で、大学では380人という一番大きなクラスを毎年持っていて、最初の授業で必ず剛丈君のことを話す。一度15年以上前、事件から7,8年経っていたけど、一人の黒人の学生が手を挙げて「私、ヨシ君を知ってます」って言ったことがある。(へーぇ!)マッキンリー高校の同級生だったそう。2ヶ月しかいなかったのによく知ってた。「彼踊ってて叱られてね」と。()フットボールの試合でヨーシ、ヨーシって言われて、その気になって前へ出て体くねらせて踊っていたら校長先生に怒られ、今度やったら日本に帰すぞって言われたって(爆笑)

(二つの石の写真を見ながら)ここに写っている石は愛知県の江南市の吉田造園の人が贈ってくれた。ルイジアナ州立大に日本人の先生がいて、この人は造園学の先生。その人を通じて送られてきた。

これをどこへ置くかで揉めた。最初のアイディアではミシシッピ川の裁判所のすぐ横の公園に置くことになっていたが、それに在郷軍人会が大反対した。ひとつの理由はミシシッピ川の所にUSキッドという駆逐艦が係留されている。こういう船が全米で博物館として残っており、実戦になると化粧しなおして出ていく。中には目玉だったのに実戦になって出て行っちゃったので収入源がなくなって困ったという町も出るくらい。で、これの見えるところに日本から持ってきた石を置くのはけしからんと言う意見が出て、潰れた。

 ヘイメーカーさんたちの行っているユニタリアン教会で20周年の追悼式も行なわれたが、この教会でピースストーンという名前をつけて、石をひきとってくれることになった。去年庭を綺麗にした時に石も動かした。ここに碑を作る話がある。本当は去年の25周年の時に作ってほしかったが、今、牧師さんがちょうど引退する時なので、ちょっと動きが鈍く、今年中には作りたいと言っている。どういう事があったかを記して記念碑にする。僕は記念行事の時は必ず日本語補習校の子を連れて行く。この日は大雨だった。外でやる行事が中止になったので、自由行動にしたら、補習校の子が5,6人来てくれた。13人しかいないので、半分近い。

 ピースストーンをくださった吉田造園さんのことは、実は誰からもらったかはっきり判らなくて、スッタモンダして、さっきの写真の感謝状が出て来てはっきり判った。ひとつの原因は造園学の先生がリタイアして日本に戻られて、ちょっと連絡がつかなかったこと。僕が日本で第三者を通じて連絡して、やっと本人と話ができて経緯がわかった。

 連邦のレベルでは、大統領選挙の時に銃規制をする、しないは意味がない。オバマもヒラリーも銃規制は全面には出していなかった。反対か賛成かって言ったら、反対の人が多いけれども、それよりももっと喫緊の問題がある。収入の不平等や、犯罪の問題だとかの方が票になる。運動しても意味がないと言っている訳ではない。州レベルでは銃規制はものすごく意味がある。連邦のレベルで、例えばトランプが大統領で共和党が牛耳っているから銃規制が進まないという事は表面上のことで、実は州レベルでは色んなことが起こっていて、その結果として連邦レベルでできるって事はある。

ブレディ法って特殊な例で、アメリカの法律はほとんど州レベル。議員さんが一人いて、たぶん何百人が電話すれば、それで動く。連邦ではそういう訳にはいかない。ここが日本と大きく違う。市会、県会議員より州議会議員の方がはるかに力がある。

 

部政一・美恵子の主観で選んだ記憶しておきたい言葉選

AFS大山さん)AFS日本協会 元事務局長

 マスコミからどうやって彼ら(服部さん夫妻)を守ろうかと思っていたが、彼らが前向きな姿勢だったので、銃規制の仕事を一緒にさせてもらった。そういう意味では非常に充実した25年だったと思う。

アメリカのAFSは、実は日本ほど関心がなかった……というか、政治的すぎて関われなかった。日本では署名は170万ほど集まったし、世界のAFSでもだいぶ集めて送ってはいる。そういう活動の中で、服部さんからアメリカの子たちに日本の安全な社会を見せてほしいということで寄付を戴いて「YOSHI基金」というのを作った。基は服部さんからの寄付だが、それに毎年寄付をもらっている。今でもAFSの中で一番たくさん寄付が集まるのはYOSHI基金。目的がはっきりしているので、何十年も毎年自動的に寄付している人がたくさんおり、残念ながら存命中にはお金はなくならない()。ずーっと続いていくだろう。(へーえ!) 毎年数十万円入って、更に元が1000万円近くあったので、一人100数十万かかるが、それでもなかなか減らない。だから、2人やった時もある。ただずっと2人にすると無くなるのでやめた。ということで、日本のAFS協会でも理事でも誰でもこのお金は手がつけられないようになっている。絶対このプログラムにしか使えない。東海支部がサポートする…実際には東海支部員がやっている。毎年2(服部)12月に留学生をこちらに招いて、旭丘高校で会を開いて、これもずっと続いていく。 AFSを使ってYOSHI基金で来てもらったら、お金がかからない。

(名市大 平田さん) 僕は大学でアメリカ史と平和学という科目の授業を持っている。銃の話をすると、学生はアメリカは怖い国なので、留学は行きたくないといい、英語もカナダやオーストラリアやイギリスを選ぶ。日本だってたくさん暴力があるじゃないか。アメリカと比べて日本が人口比率で多いのは自殺。昨日も高校で自殺があった。銃で亡くなる死と、自殺で亡くなる死。ともに学校現場で起きている。根っこは一緒だと思う。社会の中にある暴力要因を、いかに我々の手で取り除いていけるかという問題意識で学生に語りかけている。

絵本製作の提案をした理由について)25年間の服部さんの活動をもつと世界に広めたいというのがある。それと同時に美恵子さんが特に若い人たちへの教育、若者にアピールするような分かり易いもので、絵があったりして、日本語、英語の言葉があって、平易に読めるものを提案した。日本でやられてきた服部さんの活動とアメリカの活動を、どういう仕組みで繋いでいくかということ。しかも次の世代に。その辺でアイディアというか、たぶん、我々か考えるというよりも、皆さんが若い発想でもって話し合ってなんか面白いものが出てくるといいな。

(賀茂さん) 真面目にマージョリー・ダグラスから日本に来たら面白いと思う。(うーん)だって来たい子はいるでしょう。それは調べればすぐ判るし。大きな高校でしょう?(3000)絶対面白いと思う。可能性としてそう難しいことじゃない。

(服部政一) 昨年から25年経っているので、賀茂(ルイジアナ州バトンルージュ在住)さんがいらっしゃる夏に会を開こうかと計画していた。そんな時にフロリダで事件があり、マーチのイベントがあり、ミアさんの情報が入った。会の参加者は若い人を集めたほうがいいということで、平田先生の所から、若い大学生とか、AFSでも若い人を集めていただいた。・・・・・私たちが辞めるわけではなくて、若い人たちに先頭に立って戴いて、私たちはできる事はやる。

(名市大 清水さん) マーチのイベントを一緒にやらせて戴いてYOSHIの会の皆さんにお会いして、あたたかい感じがして、もっとお付き合いがしたいと素直に思った。剛丈君の事件があってのYOSHIの会だと思うが、その後に若い者がもし続けていく会になったら、もっとアメリカの学生と繋がったり、意見交換できたり、色々なアイディアがたくさん出てくるのじゃないかと思って、今後の活動が楽しみ。

(坂東弘美さん)(上記の清水さんの挨拶に)ひときわ大きな拍手を!もう離さない。(笑い)(ダグラス高校について)長い名前が不思議で調べたら環境問題に功績のあった記者の名前がマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校。すごい意味のある高校で事件が起きて、この記者も悲しいだろう。

(名市大 原田さん)平田先生のゼミ生になったので誘われて参加。アメリカは中2の頃、1週間行ったことがある。ちょうどハロウインの時期で親から昔そういう事件があったことを聞いた。

AFS東海支部支部員 松井さん) AFS東海支部に関わっている限りはこういうことを忘れてはいけないと思っている。

AFS橋本さん)AFS名古屋学生部長。AFSを通じメキシコへ留学した。今回の活動を学生部のメンバーにも伝えようと参加した。

(服部美恵子の友人柴田さん) 彼女(服部美恵子)から声をかけてもらったので、残り少ない人生を有意義に現実的に生きていかないとつまらないなと、命と息子と向き合っている中で思う。足手まといになるかと思うが宜しくお願いします。

(エンゲルバート由紀さん)マージョリー・ストーンマン・ダグラスの高校生は銃規制問題に声をあげています。自分たちが経験した思いを他の人たちにはさせたくないという思いで「ネバーアゲイン」という行動を広めています。18歳未満の学生たちに、今できることなどを、インターネットとか、そういうメディアを通じて、情報を発信しています。楽しいはずの高校生活が一変してしまった生徒たちは、悲しみの中から道を切り開いて、困難を乗り越えて社会に立ち向かっています。私たち大人が護れなかったことを、子供たちが自分たちに出来ることを探して、それに向かって活動している彼らを見て、とても誇りに思います。アメリカにも日本のように銃規制を強化される日が早く来ることを願っています。

 (ミアさん)(「高校の仲間で、どれぐらいの学生が運動に関わっているか?」の質問に対し)メインのグループはほとんど今、卒業したばかりだが、日本で言うと高三。それにはたぶん10人くらいいて、1年大学に行かないで活動している人たちもいる。私はメインのグループじゃないけど、まだこの活動をやりたい。

(羽場さん) アメリカの高校でデモがあった時の新聞記事を見て、一番私が感動したのは「政治家は恥を知れ」と言ったこと。若者の命と金とどっちが大切かと。そこだと思う。政治を変える力があるというか、それは今の若い人たちだと思う。日本でも同じ。企業に有利なように政治家が動くということが結果的にこのことを生んでいるのではないか。だから、日本の武器の輸出もそうだと思うが、そちらからどれだけ政治家にお金が流れているか。若い人が関心を持つということは、政治を変えられると思う。で、自分もなんかしなきゃなと思う。

(服部美恵子) 非常にミアさんに親近感を感じる。ちょっと歳は離れているけれど、よく似ているなと。自分の友だちの声を自分が届ける。私もそう。息子の代りになって息子の声を伝えていくという感覚がずっとある。もうひとつ共通なのは、たぶんお母さんの影響だと思うが、日本に学ぶことがたくさんあるとおっしゃる。二つのことが同じだなぁと思い、不思議に感じる。私もAFSYOSHI基金を作って、日本に学んでもらいたいと思った。

(深山さん)50年近く前にライオンズクラブから交換学生としてアメリカに行った。・・・・私の好きな国なので一緒に力を合わせて銃規制をやっていけたらいいなと思っている。

(川瀬さん)(服部美恵子と)近くのキリスト教会で英会話を一緒にやっていた仲間です。それで25年経っちゃった。そんなもんですね。

(跡部()さん) 昔、AFSの他に、YFUがあった。息子が剛丈君と同じ時にアメリカに行った。いつまでも仲良くしていただきたい友だちだったのに、本当に悲しい。もう25年も経った。アメリカがガンのない社会になるのは永遠の課題かも知れない。私の師、丸山真男は永久革命ということを言っている。民主主義とか平和とか、ガンのない幸せな社会になるということは、永久課題かも知れない。服部さんの活動は永遠の思想を体現しているかも知れない。有り難く思う。世界の人々の心を揺り動かしたし、私たちは感動を戴いた。受け継いでくれる人たちができて、まだこれから。人生100年時代。まだ1/4残っている。(1/4しか残っていない)()これからも一個人として生ある限りやっていきたい。次はMy best パートナーです。

(跡部()さん) 美恵子さんの顔を見ると25年前のあの悲劇を思い出す。私はアメリカへ飛んで行って息子を連れて帰ろうと思った。息子をあんな国においておけないと思った。悲劇にめげないで、服部さんがこういう運動をしているのを見て素晴らしいご夫婦だと思い続けてきた。その気持ちを私たちも続けて持っていたいと思う。

(服部祥子さん) ハンドガンはコレクターの人とか持っている。一度NRAの会員の人に相手の人は何も知らずにたまたま射撃に連れて行ってくれたことがある。そこでコレクターなので、すごく嬉しそうに「やってみな」。「死ぬ……」と思いながら、一番小さいので撃った。それを見た時、ゴルフクラブにハマる人たちと、変わらないように、本当に好き。

(木村さん) AFSの大山さんと高校以来の友人。前回のマーチ・フォー・アワー・ライブズで動画づくりのご縁をいただいた。私は80年代に東海岸にすんでいたが、当時Kマートで(銃は)売っていた。

(吉村さん)AFS東海支部の支部長をしている。まだ支部員経験は浅い。服部夫妻は支部員先輩。

(まのあけみさん)美恵子さんが書いた詩を2曲ほど歌にした。事件後、中学校でのコンサートが多かったが、そこで歌った。他にもたくさん歌うが、剛丈君のことを歌うと、中学生たちは衝撃を受けた。息子が殺されているのに、加害者も銃社会の犠牲者という考え方に驚いた。若い人たちには歌を通して訴えることができたと思うが、今は学校で歌うことがほとんどないので残念。でも、こうして若い人たちにバトンタッチしていけるという事を心強く思っている。

命ある限り語り継いでゆくよ 弾丸に貫かれたあなたの胸の痛みを

 あなたの命を決して無駄にしないと、心優しき人々が叡智を集めてはたらいたこと

 銃が砕いたたくさんの夢をもう一度育てよう 海をこえて銃をこえてあなたと。

( 「海をこえて銃をこえて」歌詞 )